二十数匹の猫と夏休みを過ごしていた時の話
こにゃにゃちわ。
更新頻度が安定しないことでおなじみです。気が乗ってると連日投稿したりしなかったりします。というか今、春休み入りかけなので割と暇してて、手持ち無沙汰でこうやって書いてます。再来週の補講がめちゃダルだけど、仕方ないので参加してきます。なんで再来週なんだ、来週でいいじゃないかと思ってますけど。
前回は、夏祭りの思い出をつづりました。
毎年、夏のあいだ過ごしたおばあちゃんの家では本当にいろんな経験をして、客観的に見て普通じゃないようなことばっかだったなって今思い返してます。
今回はそのいろんな経験のことを書いていこうと思います。
おばあちゃん家では犬と猫を飼ってました。合わせて二十匹以上。いわゆる猫屋敷でした。おばあちゃんは小さな山の上に家を一つと、その山を下りたふもとに家を一つ持っていました。ふもとの家はもともと僕のひいばあちゃんが住んでいたそうです。いつもは山の家で暮らしていて、毎日餌やりのためにふもとに降りてくるような生活をしていました。
僕は猫のための家があるとか漫画の中だけのお話だと思ってましたけど、意外と身近にありました。
山の家には4匹くらいの猫が、ふもとの家には犬一匹と残りの猫が。なんで分けられてたのかはわかんないんですけど、多分ふもとの家じゃ弱くて生きられない子たちとかを山で面倒見てたんだと思います。
人に飼われていようとここまで数が多くなると弱肉強食の世界みたいでして、小さい体の子はいつまでも小さい体の子でした。
なんで生まれたての子猫とかは山の方で親身になって面倒みてたのかな~と。
育った後にふもとの家に連れてくのも一苦労なので、そのあとそのまま4匹は山で暮らしてましたけどね。
で、僕は夏休みのあいだ遊びに行ってたので、勿論その世話も手伝ってました。
犬のほうはすごくなついてくれて餌やりも大変ではなかったんですけど、猫の方がまあ骨が折れて。餌やりをしている間に家の掃除をするので、食べさせるときだけはケージの中に何匹か突っ込んで餌をダバーッとやってたんですが、これがまた捕まらないんです。
大抵の子たちは餌がもらえることをわかっていたので自分でケージの中に入ってくれるんですけど、どうしても警戒心の高い子もいて、そういう子は鷲掴みにして無理やり入れるのがいつもの感じでした。
とんでもないやつは天井裏とかまで行くので、そういう時は小さかった僕がそこまで入り込んでガシッて捕まえにいってました。今考えると絶対虫とかやばかっただろうによく入れてたなって思います。ほんとに。寒気がする。
こういうわけで割と動物とふれあう機会が多かったのですが、中には僕がいるうちに死んじゃう子とかもいて、その子の亡骸は山の家の近くに穴を掘って鰹節一袋を、人の葬式でいう花みたいな感じにして周りにふりかけ、共に埋める、というのが通例でした。もうめちゃくちゃです。でも私有地だったのでオッケー(?)。
犬が死んだときはさすがにできませんでしたけど。大きかったので、ちゃんとしてもらいました。
時たま、夜中に猫の鳴き声がめっちゃ聞こえてたりしたんですけど、もしかしたら裏地で埋まってた猫が夜な夜な鳴いていたりしたのかもしれません。
とまあそんな感じで数年はそのふもとの家と山の家とで世話してたんですけど、一時、なんか問題があったみたいでふもとの家のほうが取り壊しになってしまうことになりました。
まあ猫屋敷があるっていうのがご近所的にはあんまりよろしくなかったのかもしれません。それに僕の目から見てもふもとの家の方は明らかに朽ち始めていて、地震とか来たらひとたまりもなさそうでしたし。
そこで猫たちをどうしようか、ってなって。
野良に放つわけにもいかないしね~なんて話して、まあ結局、山の家に全員移動だ!ということになりました。
この大移動、確か小学4年生のころだったかなと思います。もうあり得ないほど大変でした。ケージに何匹か突っ込んでふもとから山の家まで歩いていく。車とか運転できる人はいなかったので二人で歩道をケージ片手に歩いていました。
案の定猫たちは騒ぐんです。にゃーにゃーにゃーにゃー騒ぐんです。悲しくなるくらい大声で。呆れるほど長く。
山道なので人がそんなにいなかったのが救いでしたけど、部活帰りの少年たちとすれ違ってガン見されたときはさすがに「タクシー使ったほうがいいんじゃないの~~~~」っておばあちゃんに抗議しました。
ただまあ返答は「そんなことしなくても運べる」の一辺倒で。
めちゃくちゃ恥ずかしい思いをしながら何往復かしたのち、そいつらのために譲ってもらったプレハブ小屋の中へまとめて突っ込んで大移動は終わりました。
……いや、怖かったよね、ごめんね。
そりゃいきなり住処からだされて見知らぬ場所に急に連れてこられるとか、猫たちからしたらたまったもんじゃないですよね。うるさく泣いていたのも納得するってもんです(恥ずかしかったけど)。
その日は特別に鰹節を混ぜたキャットフードをたらふく食べさせてあげました。
その後。
うちの猫は順応性が高かったみたいで、前より狭くなった住処でも居心地よさそうに暮らしてくれていました。暴れだしたりストレスでおかしくなったりするやつがいなくてよかった。本当に。
掃除も楽になったし、餌やりの時の捕獲もだいぶ楽になりました。天井裏とかないですからね。せいぜいかまれたり引っかかれたりするだけで済むようになったのはありがたかったです。
ただこいつら、そこで新しく厄介な技を覚えたみたいで。
扉を開けて中に入る瞬間、バッと外に飛び出すようになったんです。
北海道の家って基本的に二重扉になってるんですよ。防寒対策のために。ただプレハブ小屋はそういう作りになってなくて、外に出さないようにするのがとても難しかったんです。
狭すぎて飽きたのか、急に野生本能がよみがえったのかはわかりませんけど、そんなこんなで急に出かけていくやつが増えていきました。
その結果、野良猫も引き連れて帰ってきたりすることに。
ほんとは餌とか上げない方がいいんだろうなってことはわかってたんですけど、でもここ以外のどこかで迷惑かけて死んじゃったり、毒だんご食わせられたりするくらいだったら、ここら辺に住み着いてくれた方がいいよねってことで野良にも餌をあげてやることになり。
最終的に僕とおばあちゃんは三十数匹の猫と共に日々を過ごしていく毎日になりました。四六時中猫の鳴き声が聞こえる生活、なかなか楽しかったです。
とまあこんな感じで、現代っ子の中ではなかなか珍しい経験をしていたんじゃないかなと思います。
書き始めはいろんな経験を書いていこうと思ってたんですけど、案外記事が長くなったのでこのほかの話はまた別の記事で、気が向いたときにでも。
それでは~~~。
夏祭りで出会った少年の話
こにゃにゃちわ。
開始3回目にして人生の中でネタにできる部分がなくなってきてしまい、本当薄っぺらい人生生きてたんだなと痛感しております。生きてる年数が短いのもありますけど。
というか、記憶にある中で人に話せるのが人の生き死にのことに関してばっかりで、陰鬱なブログになってしまいそうでちょっと焦ってます。
もっと楽しいことしてればよかった・・・。
さて今回はそんな中、珍しく楽しいことの思い出をつづっていこうかと思います。
小学生の頃、僕が東京で暮らしていたことは前回前々回の記事を見てもらえるとなんとなくわかっていただけてると思うのですが、そのころの夏休みは必ず母方のおばあちゃんの家に遊びに行っていました。
おばあちゃんは北海道に住んでいたので、僕は毎年飛行機でひとっ跳びしてました。一人で。
というのも、うちの母親はほぼスケバンみたいなものだったらしくて、そのころは若かった僕のおじいちゃんがやんちゃしてて家庭環境が劣悪だったのもあり、高校生時代に学校中退をして一人で暮らしていく、という選択をし、半ば喧嘩別れみたいな状態だったそうです。
僕が生まれてきたころには全然そんなそぶり無かったんですけど、でもあんまり仲がいいというわけでも無くて、あんまり帰りたがっていませんでした。
でもおばあちゃんは孫のことが可愛くて仕方がなかったようで、休みの時に遊びに来なさいと口すっぱく言ってたみたいで、僕は一人で遊びに行ってました。楽しかったし。ご飯美味しいし。
あの頃は小さい子供が一人でも飛行機乗れるようなサービスっていうのがあったので(今もあるかはわからない)、それを使って新千歳空港まで行き、そこからは迎えが来て直接おばあちゃん家にいくのを毎年繰り返していました。
夏と言えばやっぱりお祭り。例にもれずその地域でも夏祭りがいろんなところで開催されてて、おばあちゃんはいつもいろんな場所のお祭りに連れて行ってくれてました。祭り場所まで来たらお駄賃くれて、「あとは楽しんできなさい」っつって帰る頃まで放置されてましたけど。
知り合いもいないのに屋台だけ見て回って楽しいの?なんて思われるかもしれないんですけど、幼い時の行動力ってなぜか半端なくて、僕は同じくらいの年の子にバンバン話しかけにいってました。
そんな中で、ある一人の男の子ととても仲良くなりました。
どうやらその子も一人でお祭りに来ていたみたいで、暇だったぼくらはお面とかバルーンの剣とか買ってごっこ遊びなんかして暗くなるまで遊んでました。
彼とぼくのおばあちゃんは住んでる地域が近かったみたいで、僕が遊びに行っていたお祭りで彼を見ないことはほぼなかったです。なのでどんどん仲良くなっていきました。
お祭りで遊んだ後も、「あそこの公園よく遊びに行ってるから今度きてよ!」みたいな感じで誘われて、日中もよく遊ぶようになってました。足を運ぶと、人気のない公園で彼がひとりで遊んでたので、僕がそこに加わって二人で遊んだりして。
一か月もしないうちに出来た期間限定の関係だったけど、同年代の遊び友達がいなかった僕にとっては、毎日おばあちゃんの付き添いでどっかいったりするのと同じくらい楽しくて幸せな夏休みでした。
ただ、僕が東京に住んでいて、あと少ししたら帰らなきゃいけないというのはどうしても避けられない事実で、お別れの時間がすこーしづつ近づいてきていました。
ある日の夕暮れ、「あと少ししたら、東京に帰らないといけないんだ。 今度遊べるのはまた来年になっちゃうんだ」と、僕が遊び終わった後に言うと、「じゃあ、手紙送ってよ」と彼は悲しそうな笑顔を浮かべて言ってくれました。
小学生の僕が自分の家の住所なんて覚えているわけもなく、僕は彼の暮らしている家まで行って、彼のお母さんに住所を聞き、メモ用紙を握りしめておばあちゃん家に帰りました。
「今年はいい出会いをしたんだね」なんておばあちゃんに言われて、とても嬉しかったのを覚えています。
それから数日後、東京の家に帰ってきた僕は早速手紙を書き始めました。
「こんにちは、○○君」
「この間は楽しかったです、また来年一緒にお祭りで遊ぼうね」
「僕の住所書いてあるので手紙待ってます」
内容はこんなものだったと記憶してます。
思えば誰かに手紙を書いたのはそれが人生初めてのことで、母親に「ほんとに届く?大丈夫?」「なんでポストに入れたらあの子に手紙が届くの?」とか聞いてたような・・・。
それから数週間は楽しみで楽しみで、早く返事こないかな~なんて気持ちでいつも学校行くとき、帰ってきたときに家のポストを開けてました。
ただ、まてどもまてども返事は来ず。
一か月たっても、二か月たっても返事が返ってくることはありませんでした。
「やっぱりちゃんと送れてなかったんじゃないかな」なんてぼやいてもう一通手紙送ったりしたんですけど、それでもやっぱり返事は来ませんでした。
僕の手元には返ってきてないので、手紙自体はちゃんと本人のもとへ届いているはずなんですけどね。
そのうち僕も期待しなくなって、忘れていってしまいました。
それからしばらくたって、母親が大家さんから何か受け取ってきていました。
なにこれ?と思いつつ見てみると・・・。
そう、それは彼からの手紙の返事だったのです。
なんで大家さんが?ってなったんですけど、これは僕がめちゃくちゃバカだった故のことでした。
封筒に記載していた部屋番号が、隣のものだったのです。
今まで隣には誰も住んでいなかったけど、今度新しい人が越してくるから、その人のために大家さんがポストの中身とか整理してたら見つかったみたいでした。
「バカだね~あんたは」って母親から言われて、泣きそうになりました。
ちゃんと返信してくれていた彼に申し訳なさ過ぎて。
届いてないのかな?と思って二回目に送った手紙、一回目とほぼ同じ文章を書いたはずなんですけど、彼は律儀にもそっちの手紙にも返信してくれていて、彼もほぼ同じ文章を二回、送ってきてくれていました。
「返事どうするの?」って言われて、「書く!」って言ったはいいものの、二人とも「また遊ぼうね」しか書いてなかったので話の広げようがなく、何書こうかな~って悩んでいるうちに「もう結構すぎちゃってるしいいや」ってなって僕は手紙書くのをやめました。ほんとクズ。
そんなこんなでめちゃくちゃ仲良くなった彼との関係は薄くなっていきました。
次の年のお祭りでも見かけることはなくなっちゃって、自然に疎遠になっていきました。
その後、僕は色々あって小学6年生の2学期前くらいに北海道の方へ転校しました。
両親は仕事の都合上、東京から引っ越すことができなかったので、必然的に僕はおばあちゃん家に居候することになりました。で、おばあちゃん家で過ごしているうちに、「そういえばあの子元気にしてるかな」って思って、昔の記憶を頼りにその子の家まで向かいました。
そこで僕は、彼の家が建っていた場所が、廃墟のような状態になっているのをみました。
もう雑草とか生えまくりだったし、物干し竿に干されてた洗濯物っぽいものが雑巾みたいに汚れていました。玄関もボロボロで、数年前に人が住んでいたとは思えないほどでした。
でもやっぱりそこはあの日見た家の形状と同じように見えて、いったい彼の家庭に何があったんだろう、と思わせざるを得ませんでした。
でも彼がそこからいなくなってしまったのは紛れもない事実で、もう会うこともないんだろうなと感じさせるには十分すぎる証拠でした。
もし手紙のやり取りを続けていたらまた彼に会うことはできていたのかな、なんて今では思ったりしますけど、今はもうあのころ無邪気に楽しんでいた彼じゃないのかもな、なんて思っちゃったりもします。
3週間くらいしか見知ってないのに今何してるのかな~って思うほどほんとに急激に仲良くなったのは彼が人生初で、多分僕はこれからそういう人に出会うことはないんだろうなって思うけど、でももう会えなくなっちゃったのでどうしようもないです。
ただ僕の中で、彼はとても楽しい時を過ごせる友人としていつまでも記憶に残り続けていくんだなと思います。
以上楽しい思い出でした。
あの頃に戻りて~~~~。
友達の女の子が自殺したときの話
こにゃにゃちわ。
前回は保健室登校をしていたころのそこそこ楽しんでいた思い出を話しました。
今回はそれに反して、タイトルからもわかる感じのそこそこ重いやつです。
とは言ってもあんまり僕の中では今でも思い出すと悲しいとか苦しいとかそういうのはないです。僕が単純に薄情なだけなのかもしれませんけど、そのころは人が自分で死を選択するという意味についてあまり理解していなかったんだと、そういう風に感じています。今でもよくわかってないかもしれません。
今回も前回同様、小学生の頃の話です。時系列的にはこっちの方が昔となります。
小学校3年生の時、僕はよく休み時間に校庭で遊びまわる活発な子供でした。あの頃は男子も女子も混じってわーわーやってるのがすごく楽しいことだった記憶があります。僕はドッジボールとかバスケとか、そういう怪我しそうな遊びは割とやりたくなくて(人が少なかったら参加する程度でした)、比較的けがをしなさそうな、女子の方が比率の高い遊びをやったりしてました。僕の学校では大縄跳びとかけんけんぱとかそういった類の奴がそれに分類されてました。
大縄跳びとかの道具を使うタイプの遊びは道具がそんなにあるわけでもなく、上級生がそれを使ってすでに遊んでいたりすると、他の子は「しょうがないから遊具のとこいこ~」ってなってその日はあきらめたりするんですけど、僕は全くそういうのがなくて「混ぜてもらえばいいじゃん」って感じの人間でした。強すぎる。どんだけ大縄跳びしたかったんだ僕は。
そんな風な子が僕ともう一人か二人くらいいて、こいつらだけ勇猛果敢にも上級生に一緒にやらせて~って行ってたんですね。
そこで知り合ったのが2個上、当時小学5年生の女の子でした。
異性を気に掛けるとかそういったのがなかったし、昔の話なのであんまり覚えてないんですけど、肩甲骨くらいまである長い髪の毛をポニーテールみたいな感じで1本にまとめていて、眼鏡をかけている、そんな見た目をしていたような。
とにかくあまり活発的な雰囲気は感じ取れませんでした。人が足りないからしょうがなく来ているみたいな、そんな感じ。
それでもまあ楽しんではいたようで、僕らはその女の子のグループと一緒に大縄跳びをして休み時間の20分を過ごしてました。
それから僕は家にあった西尾維新の小説を読んだことがきっかけで本に興味を持ち始めます。なので昼休みに本を借りに図書室へ行くことがしばしばありました。
もちろん西尾維新みたいな小説があの時代の小学校にあるわけもなく、暫く星新一のショートショートとか読み漁っておもしれ~ってなったり、乙一の「銃とチョコレート」を読んで難しい…ってなってました。
で、そこで見かけたのが先ほど紹介した女の子でした。やっぱり(と言ったら失礼かもしれないけど)アウトドアというよりはインドア派だったようで、僕が図書室に行った日、女の子は大体いました。
あの頃の僕は知り合いを見かけたら話し掛けに行く外交的な人間だったので「何の本読んでるの~」とか言いながらその子と話して、そこそこな顔見知りになっていた気がします。
ただ、ある時を境にその子を学校で見かけることがなくなってしまいました。外で遊んでいても図書室へ行っても、影も形もなく。
僕はその子に思い入れがあるわけではなかったです。当時いた友達のうちの一人という認識しかしていなかったので、心配になるとか、不安になったりは全然しませんでした。いないならしゃあないな、他の人と遊ぶか~って感じ。友達が沢山いたようで微笑ましいです。
しかも彼女は上級生。普段の授業や学校生活で会うことは皆無と言っていいでしょう。同年代の子と比べて親密度が低かったのは圧倒的です。その子のフルネームとか、何組の人なのかとか、頭はいいのかとか、普段はどんな人なのかとか、全く知る術がありません。
他の5年生にそれだけのためにわざわざ聞きに行くには5年生の教室というのはちょっと怖かったです。区内の小学校なんて、学校で上級生とふれあうことがあるのは、1年生の時に6年生に面倒見てもらう期間くらいでしょう。北海道の田舎に引っ越してから、上級生と下級生の隔たりのなさにびっくりしました。また、年上という存在はそのころが一番怖かったような気がします。兄弟とかいればまた別かもしれませんが。
まあそんなわけでその子と会わなくなったのが1か月くらいあったような気がします。で、ある週の月曜日。
僕の通っていた学校では月曜日の朝に必ず全校朝会をするという決まりがあって、前の週でどんなことがあったかとか、校長先生の長ったらしい話とかを、校庭で立ちっぱなしで聞く。そういうのがお決まりでした。
ただその日だけはちょっと様子が違っていて、いつもは校庭に行くはずなのに体育館にみんなが集まりました。
先生たちが慌てふためかしいというか、なんというか。5年生の子たちの中でなんか泣いてる子とかいるし。
校長先生がいつもより厳格な顔で教壇に立ち、口元を震わせながら声を発します。
「先日、5年○組の————さんが亡くなりました。死んでしまいました。」
そこで初めて、僕の友達だった女の子は、この1か月の間に死んでいたという話を耳にしました。
正直ショックだったとか泣いたとかそういうの、全くなかったです。とても仲が良かったという訳ではなかったし、特別好いていたということもなかったので。
全校朝会では先ほどの言葉のあと、人が死ぬことがどういうことなのかとか、悩み事があったら誰かに必ずいうだとか、一人で抱えこむなとか、有り体に言って月並みな事ばかり口にしていました。
僕はその時もう一緒に遊べないんだなと思って、ちょっと残念になっていた気がします。
母親たちのコミュニケーションネットワークというものは恐ろしいです。
全校朝会では詳細は語られていませんでしたが、そのネットワークの中ではそこら辺がいろいろと暴かれていました。
そこで僕は、彼女が自殺をして亡くなったことを、知りました。
自殺の原因まではよくわかっていなかったみたいです。学校ではあまり目立つ子ではなかったようですし、かといって特別いじめられていたわけでもなく。もしかしたら家庭でいろいろあったのかもねーなんて、僕の母親は友達の母親から延々と聞かされていました。
ローカルニュースにも取り上げられていました。そりゃ小学5年生とかいう将来有望な年齢の子が、遺書もなく、突如自殺をしたのです。皆が皆どうして死んでしまったんだろうと嘆いていました。
反面、僕はどうして死んでしまったんだろうっていうのは考えてなくて、ただただその子にもう会えなくなった、ということにもやもやした気持ちを抱いていました。
まあ結局その程度です。色々なことがあやふやになって僕の中でこの出来事は終わりを迎えていきました。
今でも特にスッとしているわけではないです。まあ人が死ぬってそういうことですよね。彼女はもしかしたらそういう意味で誰かの記憶の中に残りたかったのかもしれません。自殺した理由がわからない以上、何を考えても無駄だと思っています。でも一つだけはっきりと言えることは、まだもう少し生きてみてもよかったんじゃないかな、ってことです。11年というのは人生を知るのにあまりにも短すぎる年数だと、今は感じています。
そんなこんなで僕と年が近しい親しかった人間が死んだのはこれが初めての出来事でした。
僕ももう19年生きています。あのころ年上だった人が、そのまま年上で居続けたはずの人が年下になるのは、やっぱりちょっと悲しいかもしれませんね。
それではこの辺で。
保健室登校をしていた時の思い出
こにゃにゃちわ。
唐突に始めたこのブログ、なんとなく自分のこと整理して振り返っていこうかな、なんて思い始めてこうやって文章書きなぐってるわけでして、飽きるまでやるかなって気がします。閲覧しながらまあこんな人間もいるんだな~なんて思ってくれさえすればいいなって言う軽い気持ちですが、まあ何卒。
いろいろ書いていこうかな~と思ってまず思い出したのが小学校高学年の時の僕の思い出でした。
その時の自分と今の自分を振り返ってみても、いまいち成長したとは感じられなかったりします。あの頃からこんな感じの内面だったし、太ってたし。
偏屈さが少し収まったかもしれないな程度の感想しか浮かんでこないですね。
大人びてたというか、背伸びしすぎていたというか、とにかくやっと体が心に追いついてきたんじゃないかなって気がしてます。
僕のことはTwitter(https://twitter.com/5pd1)見てるとわかると思うんですが、割と不安定です。大半は自分のやってるゲームのことしか言ってないつもりなんですけど、急に病み出したり、マイメロディみたいなゆるふわアイコンの奴らが言い出しそうなこと言い始めたり、エモくなってたり。
副垢作って吐き出そうかな~なんて思いつつも、作ったっきり動かしてないみたいなそういう自堕落な性質もあるので、ほんとしょうもないやつです。
そんな自分は、教室で日々を過ごしていることに対して「これって意味あることなんかな~テストとか成績は塾行ってるから問題ないし、別に学校くる必要なくね?」なんて思い始めちゃってたりしました。
今思い返しても、やっぱりいる意味なんてなかったと思います。この時の僕は正しかった。友達と関わることが減っちゃったのは確かに悲しかったけど、それ以上に僕にとってはあの教室というのはひどく苦痛で占められた空間でした。
というのも、僕の小学校5年生の時の担任が連帯責任を強要する、完璧主義者の方でして。
自分がクラスを受け持ったからには自分の言うことを聞かせてやる、悪い子は許さない!みたいな、絶対的ヒエラルキーを自分の中で持っている方でした。
遠足でちょっとお菓子をつまみ食いしようものならクラス30人全員の自由時間を奪って「どうしてこうなっているのか話し合いしなさい」だとか、給食を食べきらなければお昼休みに入らせてくれなかったりだとか、授業中に誰かがふざけてたら「注意しないあなたたちも悪い」って言って教科書の文言を全員丸写しだとか。
とにかく全員が足並みそろえてはいワンツーっていう、某国の某パレードみたいな協調性を強いられてて、先生が教室にいるときはとにかく空気が重くて、冗談抜きで首が締まっているかのような感覚がありました。
皆よく不登校にならなかったな~ストレス耐性高いな~って思ったりしてました。案の定、僕は学校に行かなくなりましたね。だって学校行かなくても勉強できるし。頭良かったし。公園いけば友達と遊べるし。誰かの家でゲームしようぜって電話するし。
ちょっと変わったタイプの不登校だったのかもしれません。いじめにあってたわけでも、独りぼっちで心が締め付けられていたわけでも、なんでもなかったのです。
ただその担任が、そしてクラスの空気が僕には耐えられなくて、僕は学校から逃げるという選択をしました。
その選択を受け入れてくれた人には感謝するしかないですね。本当に。
んでまあそうなってくるとやっぱり学校から電話がかかってきたり、担任との面談があったりするんじゃないかなーと思います。
何でそこ曖昧なんだよ、って思われるかもしれないんですけど、実はあんまり記憶がないです。
誰の言葉も大して耳に入ってなかったんでしょうね。自分はこうするって決めたのでよっぽどのことがない限り話すことはありませんっていうスタンスを貫いていたんではないでしょうか。自閉的ですね。
そして、そんなことをしているうちにその「よっぽどのこと」っていうのが出てきて、それが保健室登校という選択肢だったわけですね。
保健室には割となじみがある人間でして、授業中に鼻血だすのは日常のこと、休み時間に校庭で遊んでボール擦って怪我したりだとか、急に高熱出してぶっ倒れたりとかそういうのがあるタイプでした。あと授業めんどくさいときとか熱計りに行って先生が見てないうちに息吹いて熱を出すみたいなアホみたいなテクニックも使ってました。あの頃は。今になってもさぼり癖は抜けてませんけど。
で、その保健室の先生から「保健室登校ってのがあって、それをしてくれればひとまずはうるさくないよ」って言われました(不登校になったときはほぼ毎日担任からの電話が来ていたので)。
そっかぁ、それならクラスに行かなくて済むし、担任ともそこまで会わなくていいし、でも友達とは会えるしいいじゃん!って思って、そこから僕は保健室登校を始めるようになりました。
一言でいうと、まぁそれなりに気持ちは楽でした。「学校に行ってない」って言う負い目を背負わなくても済んでいたのが一番大きいかなって思います。
病気とかでもなくずる休みしてて、お昼にやってる教育番組とかを見ているとなんだか自分は悪いことしてるんじゃないかなって思ったりしちゃうんですよね。
それが取っ払われたってのはほんとうに精神的に楽でした。
保健室で何してたの~って気になる方もいると思うんですが、普通に進級した時に配られたドリルとかやってました。一応学校なので、ゲームとかそういうのは普通にダメです。許されません。
あとはお手伝いをちょびっとしたり。ゴミ捨てとか、薬品の整理とか、保健室に来た人の名簿のチェックとか。
普段やってない事をやると新鮮味があるのも相まって、楽しくお手伝いしてたような気がします。
ベッドもあるので好きに寝てられました。さすがに他の人が来てたら避けてましたけどね。どれだけ保健室が賑わってきていても僕のことをおろそかにしていなかったので、保健室の先生は本当にすごい人だなと感じます。
ごくたま~に先生がクラスの子を連れてきて一緒に写真撮ってたりしてたんですけど、あれはまあ卒業アルバム用のだったのかな。
まあそんなこんなで楽しく保健室ライフを過ごしていたんですけど、終わりって言うものは当然に来ますね。
はい、進級がやってきました。僕の通っていた小学校は5→6年生に上がるとき、基本的に担任は変わらないというのを知っていたので、来年からも保健室だな~修学旅行どうしよ~なんて思いながらいたわけですけど、問題はそっちではありませんでした。
保健室の先生が離任することになっていたのです。
めっちゃショックでした。もうかなり。それはとんでもなく。
でも僕に文句なんて言う資格はない。もちろん、いかないで、なんていうわがままも。
桜が少しづつ花を開いているその時に、僕の心の支えとなってくれていた人は遠くへ行ってしまいました。
そして新しく赴任してきた先生がんま~~~~~~~理解が進まなくて。何度言っても「保健室はそういう場所じゃない!」の一点張りでした。
40代くらいの化粧の濃いカエル顔の印象最悪な先生、というレッテルを張り付けて僕は保健室から逃げました。
こりゃだめだな~、ってなってそこからは自宅で過ごすようになってました。
その3か月後くらいに、僕はいろいろな要因が重なり祖母の住む北海道で過ごすことになるのですが、そこら辺はいずれ別の記事で書けたらいいかなと思います。
そんな紆余曲折があって今の自分がいると考えると感慨深いですね。保健室登校最高!世の中の教室に行きたくない皆も周囲が許してくれるなら保健室に行こう!出席だけは貰えるぞ!世界に負けるな!
それではこのへんで。
ちなみにその後、やさしいほうの保健室の先生とは何度か会ってお話したりできました。僕の中では忘れられない恩人です。